はじめに|夜に耳を澄ませるとき、歴史が聞こえる
星明かりだけが頼りの夜、そっと川辺に立って耳を澄ませてみてください。水が岸辺に当たってはじける小さな泡の音、わずかに冷たい夜風、遠くから聞こえるフクロウの声……そんな静けさの中に、私たちの「文明の始まり」が眠っているとしたら、ちょっと不思議に思いませんか?
たとえば、コンビニやスーパーでもらうレシート。あの小さな紙には、「いつ」「誰が」「何を」「いくつ」買ったかがきちんと記録されています。これがなければ、お店の人とお客さんが「言った」「言わない」で困ってしまいますよね。実は、こうした「記録を残す」という工夫は、遠い昔から人びとが試行錯誤してきたことでした。
紙がなかった時代、人びとは粘土を使いました。手のひらで形を変えられる素材は、やがて“記録する道具”になっていきます。自然と向き合い、知恵を重ねながら、少しずつ築かれていった文明の物語――。ここから、メソポタミア文明の旅が始まります。
※この動画はAI音声・映像にて主に作成されています。
文明の条件を満たした最初の地|チグリス・ユーフラテスの奇跡
メソポタミアという名前は、ギリシャ語で「川のあいだの土地」を意味します。その名の通り、この地域はチグリス川とユーフラテス川という二本の大きな川に挟まれた、まさに“川とともに生きる場所”でした。
画像提供: Wikimedia Commons / 古代オリエント地図
紀元前6,000年ごろ、この土地に暮らしていた人びとは、水をただの自然現象として恐れるだけでなく、自分たちの生活に役立てようと考え始めました。粘土と葦を使って小さな堤を築き、畑へ水を導くための溝を掘ります。水位が上がると、板を使って水門を閉じ、ちょうどよい量の水だけを畑に流すという工夫も行われていました。〈出典:DAI-Uruk〉
その結果、川が運ぶ豊かな土と人の知恵が結びつき、大麦は人の背丈を超えるほどに実るようになったのです。収穫された穀物は、ただ食べるだけでなく、余った分は蓄えられ、やがて物と交換される価値を持つようになります。
こうして、水をコントロールすることは「命を支えること」だけでなく、「時間と豊かさを手に入れること」につながっていきました。この変化が、人びとを村から都市へと導く大きな一歩となったのです。
自然と手を取り合いながら、少しずつ暮らしを豊かにしていったその姿には、今の私たちにも通じる何かがあるかもしれませんね。
ウルクとともに生まれた都市の仕組み
川辺の村で行われていた灌漑や農耕が成功を重ねるうちに、人びとの暮らしは大きく変わり始めます。余った穀物が増えると、それを守ったり分けたりする必要が生まれました。こうして、村はしだいに「都市」へと姿を変えていきます。
紀元前4000年代の終わりごろ、現在のイラク南部にあたる場所にウルクという都市国家が誕生しました。この都市は、高い城壁と巨大な神殿を持ち、多くの人が集まり、生活する場所でした。夜空にそびえ立つ段丘神殿(ジッグラト)は、遠くからでも見えるランドマークとなっていたそうです。
画像提供: Wikimedia Commons / アリ空軍基地ジッグラト(2005)
ウルクでは、3つの大きな変化が起こりました。
まず、農民たちが育てた穀物が神殿に集められ、きちんと保管されるようになりました。
次に、その穀物を職人や兵士に分配するための「記録」が必要になり、台帳が整えられます。
そして、そうした収支を神の前で誓う「儀礼」が政治とも結びつき、信仰と行政がひとつ屋根の下で機能するようになっていきました。
人びとの生活が複雑になるにつれ、「誰がどれだけもらったか」「何がどこにあるか」を正確に記録する仕組みが欠かせないものとなりました。
こうして、都市はただの大きな村ではなく、食・労働・祈り・政治をつなぐ場所へと育っていったのです。
静かだった川辺の風景は、少しずつにぎやかになっていきました。新しい都市の夜は、灯りと声と、人の営みであふれていたのでしょう。
数字と記号の誕生|粘土板が描いた経済のかたち
都市での生活が複雑になるにつれ、「記録する」という行為はますます重要になっていきました。ただ口頭で伝えるだけでは、数が合わなくなったり、誤解が生じたりするからです。そこで、人びとは「数」や「もの」を表すための新しい工夫を生み出していきました。
紀元前3300年ごろ、ウルク第四層という地層から、粘土でできた小さな板が見つかっています。そこには棒と円を組み合わせた数字や、穀物をあらわす記号が刻まれていました。これは、物の受け渡しを記録するための「行政用粘土板」だったと考えられています。
画像提供: MET Museum / 穀物配給の粘土板(Wikimedia Commons)
最初のころは、トークンと呼ばれる小さな円筒形の印を粘土の封筒(ブッラ)の中に入れて、それを封印することで「○個ありますよ」ということを示していました。でも、次第にその封筒の外側に印を押すようになり、やがてトークン自体を使わず、直接粘土板に記号を刻むようになります。
これは、情報が“モノ”から“記号”へと変わっていく、大きな転換点でした。
また、このときに使われた数字の表現は、後の「60進法」につながる重要な仕組みでもあります。たとえば、円がひとつで「10」、棒が1本で「1」といった形で、数を表していました。60を超えると桁を上げるというこの方法は、時間や暦を測るための基礎にもなっていきます。
やがて、こうした記号を専門的に使いこなす「書記」と呼ばれる人たちが登場します。彼らは粘土に刻まれた記号の意味を理解し、正確に記録を残すことで、都市のしくみを支えていたのです。
粘土の板に刻まれた線や印。それは単なる「数字」ではなく、人びとの暮らしの流れを映し出す鏡のようなものだったのかもしれませんね。
書記という記録の担い手たち
画像提供: Sulaymaniyah Museum / 書記像レプリカ(Wikimedia Commons)
数字や記号を使って物事を記録する――それは簡単なようで、実は高度な技術を必要とする仕事でした。そこで登場したのが、「書記」と呼ばれる専門職の人びとです。彼らは、神殿や王宮で記録を担当し、都市の情報を管理するいわば“知の技術者”でした。
書記になるためには、まず厳しい訓練が必要でした。発掘された粘土板の中には、同じ記号が何度も何度も練習された「書き取り用」のものも見つかっています。こうした練習用の粘土板を使って、若い書記見習いたちは手を動かしながら記号を覚え、やがて実務へと進んでいきました。
多くの書記は10代のうちから学び始め、20歳前後で神殿や行政機関で働き始めます。粘土に刻まれた一文字一文字に責任があり、それを正確に読める力が必要とされました。
彼らの仕事は「記録する」だけでなく、「読み解く」ことでもありました。間違いがあれば都市全体の物資の流れに影響を及ぼすため、その知識と技能は非常に重要視されていたのです。
また、書記という職業は一代限りではなく、家族で受け継がれることもありました。父から子へ、あるいは祖父から孫へ。書記の技術は家族の誇りでもあり、代々引き継がれて磨かれていく知恵のかたまりでした。
現代の私たちが文字を読み書きするのと同じように、当時の書記たちもまた、「人と人とをつなぐ力」としての記録を支えていたのです。
書記たちが残した小さな粘土板。そのひとつひとつが、はるか昔の都市の息づかいを今に伝えてくれていると思うと、ちょっと胸が熱くなりますね。
おわりに|最初の「学び」は、誰に向けて記されたのか?
星が川面に映り込む静かな夜、あなたならどんなことを思いますか?
メソポタミアの人びとも、そんな夜に耳を澄ましながら、水の音とともに暮らしていました。彼らは自然と対話し、粘土に記録を刻み、都市をつくり、人と人をつなぐ仕組みを生み出しました。
「記録する」という行為は、ただ情報を残すためだけではありませんでした。それは、自分がここに生きたという証であり、次の誰かへと託す“学び”でもあったのです。
最初の文字は、神話でも詩でもなく、経済のための記録から始まりました。
けれど、そこには人びとの暮らしの息づかいが、確かに刻まれています。
誰が、どれだけの穀物を受け取ったのか。どこに、何を運んだのか。――
そのひとつひとつが、都市を支え、人のつながりを記す「物語」だったのかもしれません。
もし、あなたが当時の書記だったなら――
どんなことを粘土板に残したいと思いますか?
そして、その記録が何千年も後の未来に届くとしたら、どんな気持ちになるでしょうか。
この物語の続きは、やがて“くさび形文字”へとつながっていきます。
記録の進化は、人類の学びの歩みそのもの。
その一歩一歩を知ることで、私たちは「今」をもっと深く味わえるのかもしれませんね。
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